※この記事は一時の感情の殴り書きです。
最大多数の幸福。これを大きく侵害しているのが現状の職場のように思える。
とはいえ、最大多数の幸福が絶対に正しいという訳では無いことは考慮する必要があるか。
例えば事例1 A(40)さんが女性B(20)、C(20)さんらと会話しているとD(30)さんがAさんに直接罵倒した
Aさんが嫌悪感を示す > Aさんが良くないと諭される > DさんがAさんへの批判を話す > Dさんはそういう人だからと許される
事例2 ストーカー行為・事業所内でも気になる女性を探し回る、好きな男性に付きまとう > 許される
話が合う人と話したい人 > 女性と話しているところを目撃される > 口撃される
口撃してきた人: そういう人だから
された人: 受け流せよ
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多数の犠牲を払ってまで居残らせるのは何故なのか
就職したい人なら就労支援
自立した生活や居場所がほしいなら生活支援
でもこの人は気になる女性が居るためだけに事業所にしがみつきたいだけの人
その人を怖いと思っている人にも、「本人に直接言いなよ」と言うスタッフはどうなのかと
いざ言ったら言ったで、怖い人が職員の部屋まで来て誰々にこれこれって言われたと言いに来たら、「それはその人が悪いねー」と言いそう
苦手な人からは距離を取るのも一つの手段だし、社会でもある事だと思う。変な人や怖い人からは離れるし。しかし、ここでは距離を取ることが相手を独りにしたり無視をすることだと扱われて、話の輪に入れろという
支援員でも苦手な人というのはできるもの。だから、苦手な人の対処は苦手じゃない人にお願いしたり、苦手じゃない人がいなかったら協力して対処しよう。という話があった。しかし、現状は苦手な人に厳しく当たっているだけである。最初の話はどこいった
そもそも何故悪い側が許されて、その後の言動からも複数の人が気分を害しているのに、悪口を言われたり怒鳴られたり危険思想を聞かされて恐怖を植え付けられた側が「配慮しろ」「わがままだ」と言われなければならないのか
いや、そうだった、福祉的に言うなら利用者間のトラブルを支援者側で善悪を決めてはいけないんだったか
だとするなら尚更、双方への対応にここまでの差が出るんだ
一人ひとりへのより良い対応が違うことは理解できる。一度の過ちすら許されないのも違うということもわかる。反省の意があるのなら、様子を見守ると良いのだろう。だが今の状況は違うだろうが
問題行動や問題発言が多い側の自由や居場所が担保されて、他の人には「お前らが仲良くしてるからあの人が怒るんだ、配慮しろ」なんて負担をかけさせている
仲の良い人ができて居場所ができたと思ったら、仲の良い人との会話も許されず「はよ帰れ」
連絡先交換も事業所ルールで禁止されているから事業所外で遊ぶのも困難
事業所を居場所とせず仲良しで集まるためにはルールを破るしかない
なんだこれ
DはAだけでなくB、Cの悪口も言っており、2-3ヶ月に一回職員の部屋へ怒鳴り込みに来る
BがDへの不満をスタッフに漏らすとこれまたわがままだと判断される
不快な思いをさせられているのに悪感情を持たないという方が難しいと何故わからないのだろうか
というかわがままだと判断するなら、Dが度々話している悪口にも同じ判断が下されないとおかしいだろう。それこそ依怙贔屓じゃないか
下痢の原因が生活習慣のせいだけではないとわかった日だった。むしろこちらの比重の方が上だ

