鈍感とは強さだ
と僕は思う。
褒められる機会というのは少ないようで、意外と多い。
それこそ、誰かと食事したり、遊びに行ったりするとその瞬間が訪れる。
が、その褒めが正しく “褒め” なのか “世辞” なのかは判断が難しい。
お世辞とわかっているとなかなか反応に困るだろう。
まぁ僕の場合はその瞬間は鈍感なので、褒め言葉であれば何であれ「そんなことないですよ~」とか「ありがとうございます」とか言いつつ徐々に気分が舞い上がる。それはもう滝登り。
やはり鈍感は無敵である。
目次
僕は褒められると舞い上がる。…方だと思う。
普段は他人の話を聞く事に徹し、自己主張は抑えている。(筈…)
でも僕という人間は自慢したがっている。褒められたがっている ! マウンティングしたい ! 気持ち良くなりたい !!
我ながら眼を背けたくなるような独白だ。
昨日は飲み会があった。
事業所移転のバイト + ボランティア終了後の夜
所謂、お疲れ様会。
飲み会である以上、コミュニケーションも当然付いてくる。
余程のことが無い限りは会話が盛り上がり、各個人の掘り下げへ移る。
その中には趣味があり、愚痴があり、惚気があり、持論がある。
時には武勇伝なんかもあるかもしれない。
そして、関係を広げるに当たって近道なのは共感や褒めの言葉だ。
でなければ、社交辞令なんてものは存在しない。
それ程までに褒めには力がある。
これまでも僕の話だったが、ここからは 100% 僕の話。
褒められた瞬間の僕、他人と話している時の僕は鈍感だと上でも書いたが。
独りの時間は別だったりする。
長短の差はあれど、褒められて得られたエネルギーはやがて消えゆく。
お世辞なんだろうな、と思えてくるからである。
ここで勘違いしてほしくないのは、お世辞なのだろうと “気付く” のではなく、”感じる” という点である。
これには事実か主観かの違いがある。
熱は時間と共に消え、温度は環境へ馴染む。それと同じだ。
言葉は時間をかけて自己の中で解釈され、浸透する。
次、人と話す時、勘違いしたまま話す事が無いように反省しているのだとそう感じた。
ま、本当にお世辞で、勘違いだったとして。それでも勘違いしたままの方が幸せだし、俺は他人と話してる間は無敵です。
他人の前では素直、自分の前ではひねくれ者なんだなぁと思いましたまる
自分を動かすだけのモチベーションが湧いてきたり、エネルギーが得られたら無くなる前にまず動くことが重要である。
お風呂に入っている時間とパズルゲーム中が一番頭が回ると思うんだよなぁ。
まとめた: 何言いたいのかよくわからない記事。ふわっと思い付いた持論を徐々に忘れながら書いたからね、仕方ないよね
褒められたら嬉しいよね。でも、独りになってから思い返すとネガティブになるよねって話。