とある研修にて
次回までの課題として提示された文書の読書感想文を書いてくるように言い渡されたため、考えをまとめる。
これはそういう記事。
目次
金型製作に心血を注いだ職人と神業と呼ばれたその技術を確実な形で後世に残そうとした筆者の話だった。
職人の石井さんは筆者の再現したマニュアルとその成果を目にしたことで「恥をかかされた」と協力関係を解いてしまったが、これは未然に防ぐことができたのだろうか。
2人が分かたれた原因は何だったのだろう。
それは偏にコミュニケーション不足だったのではないだろうか。事前に神業と呼ばれるその技術を誰でも扱える手順に落とし込みたい、見える化したい、石井さんの技術無しでは完成しない、といった事を念入りに伝える。そして密に話し合う場を設ける。そうすれば双方の前提が揃って同じ方向へ向かうことができたのではないか。もちろん、その時点で石井さん側が協力を断ってくることもあり得るし、マニュアルは完成しなかったかもしれない。しかし石井さんの誇りを致命的に傷付けることは無かった。
と、そこまで考えたがそんな訳が無いではないかとも思った。
筆者が神業を誰にでも扱える手順に落とし込む過程で事前説明や密なやりとりが発生しないはずがないからである。
コミュニケーション不足が原因ではない。だとすれば他に原因があるという事。
石井さんは若者に自身の金型と同じ物を作られ恥をかいた。つまりプライドが傷付けられたとも捉えられる。
逆に筆者は神業を手順へと落とし込むことで後世に受け継げるようになった。それが喜びであったはずだ。
つまり、両者は考え方が異なっていたのではないか。もっと根本的に言うなら信念・価値観が乖離していたのだ。
石井さんは神業と呼ばれる自身の技術に自信と誇りを持っていたのだと思う。だからそれが簡単に再現されて打ちのめされたのだ。であれば始めから協力しなければ良かったのではないか。
いや違う、自分の誇りを守るために協力したのだ。
石井さんの技術は他の職人でも真似ができなかったのだろう、だからこその神業。だから今回も完璧な再現はできない、できる訳がないと心のどこかでそう驕っていたのではないだろうか。
だから神業再現を目指す筆者に力を貸したのだ。きっと完成度 80% のジェネリック石井金型が作れるようになり、「頑張って再現しましたがこれが私達の限界でした。やはり石井さんの神業は素晴らしいですね。」と言われる未来を想像していた。しかし蓋を開けてみると 100%石井金型が出来上がっており、思いあがっていた自分自身を省みることで恥をかいたと思ったのではないかと私は想像した。
もし石井さんの考え方がもっと違っていたら、それこそ筆者の言うように「石井さんがいたから完成した」と誇れていたら 2人の協力関係は途切れていなかったのかもしれないと思えて仕方がない。
だが、価値観とはその人が人生を送るなかで徐々に蓄積、固められていく捉え方の指標となるもの。私が言うように考え方が違っていたら、ましてや考え方を変えていたらこうはならなかったと想像することは容易い。しかし、人はそう簡単に変われないものだ。
だからこそ、この話を読んだ私は恥をかかないような柔軟な考え方ができるように意識していきたいと思った。
人は神を芸術や神話、音楽、現代に至ってはアニメやゲームにも落とし込んできた。であれば神業を再現性のある技術に落とし込む可能性も往々にしてあるのだ。
では柔軟な考え方とは何か。私は他の考え方を受け入れる余白のある考え方と定義する。
「もしかしたら xx なのではないか」「本当に xx だろうか」のように、自分の中にある考え方にプラスして可能性を考慮したい。そうすれば他の人の考え方を受け入れる土台が作れるし、本当に信じがたい事が起きてしまった時の心構えを事前に予習できるのではないだろうか。できたら良いなぁ。と思った。
加えて、価値観とは人の考え方を定める重要な基盤であると同時に自身を苦しめるがん細胞になってしまう側面もあるのだなと感じた。