人はそれぞれ独自の世界を持っている。
僕はそう思う。
それが集まって、教育により平均化され、今へと至っているのだと。
目次

例えば
宗教勧誘、ヴィー〇ン、反ワク〇ン、色々あるけど、それらが在るのは人の世界観の違いによるものだと思うのだ。
またまた例え話なんだけど、世界観の違う世界、異世界と言っても良い (異世界転生系小説の話じゃないからね)。
その世界の物理法則が僕らの世界と違ったとする。例えば地面が球体ではなく平面だったり、例えば地面にあるりんごは5分後必ず木に戻ったり。
そんな別々の世界の2人が会話をしたらどうか ?
初めは大丈夫かもしれないが、徐々にところどころ気になる点が出てくる。違和と言い換えても良い。
仮にこの相手の世界観をすべて受け止められるならば、妄信できるのならば問題は起こらない。
話に聞いた異世界で生きざるを得なくなればそうなるだろう。
だが、自分の世界で生きていける環境下でこの話を聞いても違和が膨れ上がるだけだろう。
これは、必ず不快感へと転じる。
自身の常識が通用しない。
文字通り、『話にならない』だ。

世界観の共有。誤解を恐れず言うとそれは価値観の押し付けと定義する。
そも、”世界観の共有ってなんだよ” という話なわけで。
ひとまず、”世界観”、”価値観”、”共有” の3つについて軽く調べてみた。
世界観: 世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだという、世界・人生に対する見方。
価値観: 物事の価値についての基本的な考え方。
共有: 共に所有すること。
Google検索より引用
なーんか、書き始めた当初に構想していた内容とは違う方向になってきている気がするけど、このブログではいつもの事なので、気になるけど気にしない方向で以降も記述していく。
先でも書いたように、世界観とは人それぞれの世界の在り方、自分を形成した人生に対する考え方なのだ。
価値観の共有と言えば聞こえは良いが、場合によっては共有したい相手の世界を否定する事態になりかねない。
人には他人から理解されがたい常識という物を持っているものだ。
僕もそういう物を持っている。
運についての僕の解釈
僕の “運” に対しての考え方を紹介する。
僕は、運は貯める物だと考えている。今も。
突然こんな突拍子もない事を聞かされて混乱していることだろうから、簡潔にわかりやすく(?) 説明すると
運はソシャゲのログインボーナスの如く日に日に貯まる物で、運を使う出来事が起こった際に自動的に適量が適用される物なのだと考えている。
だから、僕はじゃんけん等の運を使うことはなるべくしないようにしている。
理由は簡単。無駄に運を消費してしまう、と感じるからだ。
ここまで読んでわかるだろうが、この話には一切の根拠が無い。
でも、僕は信じてしまっている。
これが僕の世界観だ。
仮に、上記のような世界観をあなたが友人に話されたとする。
そこで、「今後は運を無駄に消費しないようにじゃんけんはするべきではないよ。」と諭されたとする。
言われた君は、果たしてどう感じるだろうか ?
馬鹿げているだとか、何言ってんだコイツだとか思うのだろう。あるいは、共感するのかもしれない。
ここまでであれば、問題はあまり無い。
が、ここから
そのように行動するよう強要されたらどうか。
さぞ不快だろう。
ところでこれ、既視感がないだろうか ? そう、宗教勧誘である。
宗教勧誘とは自身の世界観を共有するのを引き換えに人間関係を犠牲にする行為なのである。
(まぁ、そんなことはほとんどの人には常識になっているとは思うが)

要するに様々な思想が生まれ広まっていくのは仕方がない事だが、押し広げていくにはリスクを伴うということ。
…なんか書き始めた時とは色々違う気がする…けど…、まぁ、良いか !
記事途中でも言及していますが、僕の記事は行き当たりばったりで作成しています。(特にカテゴリー “落ち葉” )
考えに耽たら、修正します。
